大阪地方裁判所 平成9年(ワ)7490号 判決
原告 下川美智子
右訴訟代理人弁護士 武田純
同 斎藤ともよ
同 斎藤浩
同 池田直樹
同 阪田健夫
同 河原林昌樹
被告 医療法人錦秀会
右代表者理事長 藪本雅巳
右訴訟代理人弁護士 中嶋邦明
同 平尾宏紀
同 井上鍬子
主文
一 被告は、原告に対し、金一六五〇万円及びこれに対する平成七年一一月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金三四二四万九七三六円及びこれに対する平成七年一一月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告の娘である亡下川和美(以下「和美」という。)が交通事故に遭って一命をとりとめ、回復傾向を見せたが、被告の開設する阪和記念病院(以下「被告病院」という。)に転院した直後に心停止となり、その後、意識レベルが低下したまま、結局播腫性血管内凝固症候群(DIC)により死亡したことについて、原告が、被告に対し、体動の激しい和美の手を抑制してほしい旨の原告の申入れにも応じず、十分な監視も行わなかったため、和美がうつぶせとなり、窒息のうえ、心停止を起こしたとして、被告病院の医療契約上の債務不履行ないし不法行為を原因として損害賠償を求めた事案である。
一 前提となる事実(争いのない事実及び証拠上容易に認められる事実)
1 当事者
和美(昭和四七年一一月一一日生)は、亡下川謙蔵と原告の長女である。和美は、平成七年一一月一四日に死亡し、母である原告がその権利義務を承継した。
被告は、大阪市住吉区内で被告病院を開設する医療法人である。
2 事実経過
和美は、平成六年七月一二日(以下、特に断らない限り「平成六年」は省略する。)午後一一時一〇分ころ、友人の運転する自動二輪車の後部座席に乗って東大阪市内を走行中、対向車線から右折しようとしていた車両と正面衝突する交通事故(以下「本件交通事故」という。)に遭い、後部座席から路上に投げ出されて頭部を強打し、脳挫傷を引き起こして、救急車で吹田市内の大阪大学医学部付属病院(以下「阪大病院」という。)に搬送され、入院した。
和美は、阪大病院(災害外科)に入院後一〇日あまりは意識が戻らなかったが、七月二三日に右側側頭葉、七月二五日に左側側頭葉の各開頭血腫除去術を受けた結果、意識が回復し、阪大病院の担当医師から、大分よくなったとしてリハビリのための転院先にと被告病院を紹介された。
八月一七日、和美は被告病院に転院し、外来で診察を受けた後、五階の看護婦詰所に一番近い病室(以下「本件病室」という。)に入院することとなったが、同日午後七時半ころ、和美に付き添っていた原告は、看護婦から面会時間が過ぎているので帰宅するように言われ、その際、和美が動くので手を縛って欲しいと看護婦に要望したが、右申入れは聞き入れられなかつた。
同日午後一一時過ぎ、原告の自宅に被告病院から、和美が心停止を起こしたから来院するようにとの電話連絡があった。そこで、原告が被告病院に駆けつけたところ、担当の中井啓輔医師(以下「中井医師」という。)から、同日午後九時に見回ったときには和美の容態に異常はなかったが、同日午後一一時に見回った際にはうつぶせの状態で発見され、心停止を起こしていたとの説明があった。
和美は、右時点では蘇生措置により一命を取り留めたが、その後も意識が戻ることはなく、その容態は好転せぬまま、平成七年一一月一四日、肺炎に基因する播腫性血管内凝固症候群(DIC)により死亡した。
二 争点及びこれに関する当事者の主張
1 被告の不法行為ないし債務不履行の成否
(一) 和美の心停止及び低酸素脳症発症の原因
(原告の主張)
和美が被告病院に転院直後心肺停止(以下「本件心停止」という。)に陥り、低酸素脳症を発症した(以下、右事故を「本件医療事故」という。)のは、うつぶせになった際に気管切開部が圧迫され窒息状態になったことが原因である。すなわち、和美は、ベッド上で仰臥位や横臥位など体位を激しく変えているうちに伏臥位となり、頚部前面の気管切開部の口が閉塞した結果、窒息し、脳の低酸素状態が持続されて低酸素脳症を発症したものと考えられる。
この点につき、被告は、和美の喉には人工鼻(気管切開チューブのフィルターのついた部分)が装着されていたので窒息する可能性はないと主張するが、阪大病院で装着されていた人工鼻は通気孔が前部に一つしかないタイプのものであって、被告の主張する通気孔が二つある人工鼻とは種類が異なるから、窒息の可能性は必ずしも否定されない。むしろ、和美については、入院時病棟指示表(甲一一)により頻回に呼吸器の痰を吸引するように医師の指示がなされていたことからすると、被告病院においては阪大病院で装着されていた人工鼻が取り外され装着されていなかった可能性も否定できない。
(被告の主張)
和美は本件心停止に伴い低酸素脳症に陥ったが、その原因が呼吸器の閉塞によるものであるか否かは必ずしも明らかではない。発見時、和美の上半身が伏臥位になっていたとの報告から、中井医師は呼吸器の閉塞が原因であると考えたが、第一発見者の勇すえみ看護婦(以下「勇看護婦」という。)が、呼吸器の中に痰などが詰まった状態ではなかったこと及び上半身は伏せられていたが足は動いていなかったことを確認したが、和美をすぐに仰臥位にしたため呼吸器の閉塞まで確認していないと証言していることからすれば、たとえ伏臥位であっても呼吸器が閉塞されていたか否かは不明である。また、和美の喉には通気孔が左右にある人工鼻(乙二〇参照)が装着されていたから、うつぶせになったとしても人工鼻の両側にある通気孔から空気の通り孔が確保され、窒息する可能性はないはずである。
(二) 責任原因
(原告の主張)
被告は、和美が気管切開のうえ、呼吸用チューブを気管に挿入しており、うつぶせになる等した場合には、気管切開部が圧迫されて呼吸困難をもたらすことを十分予見しうる状態にあり、しかも、そのような懸念を和美の母親である原告から直接伝えられていた。したがって、被告は、和美の上肢を抑制して和美がうつぶせになることを防止するか、和美がうつぶせになった場合に直ちに救護できるようにその状態を常時観察できる状態においておくべき注意義務があったにもかかわらず、右義務に違反し、和美の上肢を抑制することなく、心電図モニターも装着せず、看護婦の巡回も二時間おきにしか行わなかったものであって、右の点について注意義務違反、医療契約上の義務違反がある。
意識レベルには様々なレベルがあり、傾眠や混迷のレベルでは様々な体動や発語が見られるところ、意識障害によって自らの行動をコントロールできないいわゆる脱抑制状態にある患者は、自ら動き回ることによってベッドから転落したり周囲の物に接触して身体を傷つけることもあるから、病院としては患者を常時観察できる状態においておくか、患者の身体に危険が生じないように予め抑制する必要があり、とりわけ、呼吸障害により気道確保の措置が採られている患者については、単に伏臥位になるといった偶然的な出来事でも呼吸困難による窒息の可能性があるので、より厳重な観察、保護が必要となる。
抑制に関しては、患者の人権に対する配慮から好ましくないという意見もあるが、抑制を行わなければ患者の生命、身体に危険が及ぶという段階においては、生命、身体の安全というより重要な法益を保護する義務が優先するのであり、一定期間患者の身体を抑制するという医療行為が必要かつ相当な場合がある。本件はまさに右場合に該当し、和美が少なくとも脱抑制状態を脱するまでの間は、右抑制が必要であったところ、阪大病院では和美の意識レベルを考慮して抑制を行っていたが、被告病院では転院当初から抑制を停止したため、和美がうつぶせ状態で本件心停止を起こす医療事故が発生したのである。
(被告の主張)
中井医師は、抑制に関し、和美の筋力は一ヶ月以上の阪大病院における長期入院により相当に低下しており、下肢には拘縮が生じていたこと、和美の体位は仰臥位が主で横臥位になることはあっても伏臥位になることはなかったことから、危険防止のために抑制帯を使用するより、治療やリハビリのためには身体を自由に動かす能力を回復することが重要であり、抑制によるストレスがマイナスになると考慮したため、抑制の指示を出さなかった。また、原告が帰宅した後に巡回した西岡看護婦も、和美の状態を確認し、伏臥位になる危険性はないと判断して、頻繁に訪室することで足りると判断した。患者の人権への配慮からもなるべく抑制は避けることが望ましい。人工鼻は伏臥位になっても閉塞するものではないし、伏臥位になるだけの筋力があれば、呼吸器が閉塞した場合にも自力で仰向けになれるはずであるから、和美を抑制しなかった点につき被告に責任はない。なお、和美は、本件交通事故によって受けた脳挫傷のために意識障害による痙攣が生じ、伏臥位になったと考えられるが、その場合にはいつ伏臥位になるのかは予見不可能であるから、被告に責任はない。
心電図モニターについては、外来で診察の上モニターを装着したが、和美が体を動かすためモニターを付けても役に立たないことから、モニターをつける指示をしなかったが、看護婦が頻回に訪室し、和美の容態には注意を払っていたのであり、いずれにしても被告には注意義務違反、医療契約上の義務違反は存在しない。
2 本件心停止と和美の死亡との因果関係の有無
(原告の主張)
和美の直接の死因となったのは、播腫性血管内凝固症候群(DIC)であるが、和美が播腫性血管内凝固症候群(DIC)を発症したことと本件心停止及び低酸素脳症との間には法的な因果関係があるから、和美の死亡と本件心停止との間にも相当因果関係が認められる。
本件では、和美が受傷からかなりの期間を経過した後に播腫性血管内凝固症候群(DIC)を発症していることからすると、脳挫傷などを直接の原因とする外因性の機序は考えにくく、感染症を原因とする内因性凝固系の活性化が考えられるが、和美は本件心停止以後に繰り返し肺炎に罹患しているうえ、他に尿路感染症などさまざまな感染症を合併し、これらが基礎疾患となって播腫性血管内凝固症候群(DIC)が発症したと考えるのが妥当である。そして、和美が繰り返し感染症を引き起こしているのは、何よりも本件心停止以降の遷延した意識障害のもとで和美の生体防御機能が低下したことが最大の原因である。重症の肺炎や感染症は遷延した意識障害のもとで併発し、敗血症へと移行しやすいことは医学上一般的に認められている。確かに、和美には本件心停止以前に脳挫傷の疾患があり、これにより感染症を引き起こしやすい状態にあったことは間違いないが、本件心停止の前後で和美の意識レベルがかなり異なることからすれば、本件心停止後の意識障害が播腫性血管内凝固症候群(DIC)の重要な原因となっていることは明らかである。
(被告の主張)
阪大病院での長期入院治療の間に、和美はMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)及び緑膿菌に感染発症しており、体力の低下が著しかったことは明らかである。したがって、和美の直接の死因である播腫性血管内凝固症候群(DIC)の原因は、本件交通事故による体力の低下に起因して繰り返し発症した感染症にある。
3 損害額
(原告の主張)
(一) 積極損害
治療費、入院費 一七三一万九三八八円
付添看護費 四四万四一三一円
入院雑費 六三万八三〇〇円(一日一三〇〇円の割合で四九一日分)
通院交通費 一万九六七〇円
葬儀費用 一三〇万円
(二) 消極損害
逸失利益 四四〇四万二〇一九円(本件交通事故当時の和美の年収である二七四万四七一八円を基準に、三割の生活費を控除し、平均余命までの逸失利益をホフマン式計算法で中間利息を控除して算出した金額)
休業損害 三九六万三九四八円
(三) 慰謝料
入院慰謝料 三九三万円
死亡慰謝料 二〇〇〇万円
(四) 示談による保険会社からの支払
右(一)ないし(三)の各損害のうち、六〇五一万七七二〇円については、本件交通事故の加害者と示談し、その加入する保険会社から支払を受けた。
(五) 弁護士費用
前記(一)ないし(三)の損害から(四)の支払額を控除した三一一三万九七三六円の一割に相当する三一一万円については、本件訴訟を提起するために必要な弁護士費用として、被告の不法行為ないし債務不履行と相当因果関係のある損害である。
(六) 合計 三四二四万九七三六円
(被告の主張)
和美の死亡に伴う損害はすでに填補されている。本件交通事故により和美が受傷して死亡したことによる損害額の全部につき、本件交通事故の加害者と原告との間には示談が成立し、弁済を受けたのであるから、被告に二重の填補を求めることは不当である。和美の好意同乗による減額分を被告が負担する理由はない。
少なくとも、和美が本件交通事故で受けた脳挫傷は脳幹にも及ぶ重篤なものであり、たとえ治療したとしても就労可能な程度まで復帰できたとは考えられないから、被告の行為によって逸失利益が発生することはない。
第三争点に対する判断
一 認定事実
前記前提となる事実、証拠(甲一ないし二一、乙一、二、三、三の1ないし5、四の1、2、五ないし二八、二九の1ないし5、検証の結果、証人勇すえみ、同西岡美代子、同中井啓輔、同龍神秀穂、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
1 和美は、平成六年七月一二日午後一一時一〇分ころ、友人の運転する自動二輪車の後部座席に乗って走行中、対向車線から右折しようとしていた車両と正面衝突する本件交通事故に遭い、後部座席から路上に投げ出されて頭部を強打し、両側側頭葉脳挫傷、錐体骨骨折、髄液耳漏、右気胸等を引き起こして、大阪府吹田市内の阪大病院に救急車により搬送され、入院した。
右入院時の和美の所見は、意識レベルはグラスゴー方式でE1V1M5(まったく開眼せず、言語反応は全くなく、運動反応は疼痛部への刺激をはらいのける程度)、対光反射はあるが左の反応はやや鈍く、血圧は当初安定していたものの、口腔及び右外耳孔からの出血のため一時六〇ミリメートル水銀柱まで低下したが、急速輸血によって回復した。また、右外耳孔より脳実質が脱出していた。その他、右耳介後部の挫創以外の損傷はなかった。七月一三日、頭部CTによって両側側頭葉の脳挫傷が認められ、頭蓋内圧を測るICPチューブが挿入された。ICU(集中治療室)入室時ICPは二〇ミリメートル水銀柱以上となり、体温も三八・七度に達したため、イソゾールを投与し、脱水療法、低体温療法を施行した結果、ICPは安定した。さらに、尿崩症も出現してきたので、微量のADH(抗利尿ホルモン)が投与された。
七月一八日から脱水療法を離脱しようとしたが、頭蓋内圧が再度上昇し、頭部CTにおいて脳挫傷周囲の浮腫の増強が認められ、七月二一日、胸部の気管切開を行い、喀痰を多量に吸引した後も保存的経過観察に努めたが、頭蓋内圧が上昇傾向にあったため、七月二三日に右側頭葉、同月二五日に左側頭葉の各開頭血腫除去術を実施した結果、和美の意識は回復した。七月二五日、前記ICPチューブを入れ換え、その後の和美の容態の経過は順調で、意識レベルも上昇、改善してきたため、同月二九日、右ICPチューブを抜去したが、発熱状態が続き、抗痙攣剤であるアレビアチンによるものと思われる薬剤性肝障害、顆粒球減少症が見られ、白血球、好中球も減少し、白血球増加のためにノイトロジンが使用されたが、感染症に罹患しており、尿や鼻腔内分泌物、喀痰からはMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)、緑膿菌が検出された。
和美の意識レベルはグラスゴー方式で八月一日にはE2V1M4(痛み、刺激により開眼し、言語反応は全くなく〔ただし気管切開中〕、運動反応は痛みにより逃避運動を行う程度)、八月二三日にはE4V1M5(自発的に開眼し、言語反応は全くなく〔ただし気管切開中〕、運動反応は疼痛部への刺激を払いのける程度)に回復して安定し、八月七日には少し追視できるようになり、八月九日にははっきりと開眼し体動も見られ、八月一五日には右手で握手するまでになり、順調に回復した。ただ、和美の体動は激しく、八月一四日には硬膜外チューブを自己抜去したため、両手を抑制された。
八月一六日、原告が和美に面会に行ったところ、阪大病院の担当の青木医師から、大分よくなったのでリハビリのための転院先にと被告病院を紹介された。
八月一七日午前一〇時ころ、原告が家族と阪大病院に出向いたところ、担当医師が和美を車椅子で戸外に連れだした際には、車椅子の足台に足を乗せるようにという原告の指示に従ったり、看護婦から与えられた氷を噛んで飲み込める程度にまで回復していた。
2 八月一七日午前一〇時五五分、和美は被告病院に転院し、外来で診察を受けた後、同日午後〇時一五分、五階の看護婦詰所の前にある本件病室(一〇号室)に入院することとなった。和美の当時の身体状況としては、血圧は一三〇ミリメートル水銀柱、脈拍は毎分八四回、体温は三六・三度と正常で、意識レベルは、グラスゴー方式でE4VTM3ないし5(自発的に開眼し、疼痛に若干の反応を示す程度。気管切開のため発声は不可能)、三-三-九度方式でII-一〇(刺激で覚醒する。呼びかけで容易に覚醒する。)であり、鼻から栄養補給のためのEDチューブが挿入され、気管が切開され呼吸用チューブも挿入されていた(なお、被告は和美に通気孔が二つある人工鼻が装着されていたと主張するが、阪大病院で装着されていた人工鼻は通気孔が一つのものであって、被告病院に転院するに際し、これを付け替えた旨のカルテ等の記載はなく、本件心停止当時において呼吸器閉塞があったとは考えられない理由として当然挙げられるべきにもかかわらず、担当医から原告に対してかかる説明が全くなされていないこと、入院時病棟指示表〔甲一一〕に吸引を頻回に行うようにという指示があるが、このような場合は人工鼻を装着しない場合が多いことからすれば、被告の主張するような人工鼻が装着されていたとは認められない。龍神秀穂医師も和美のような頻回な吸引を指示するようなケースにおいては人工鼻を装着しないことがある旨証言している。)。和美は、原告が右病室を訪問した際には、手を挙げるようにという原告の指示に従うこともできた。ただ、喉に呼吸用チューブを挿入していたにもかかわらず、何度も寝返りを繰り返しており、伏臥位になる危険性があった(被告病院の中井医師が和美を診断して作成したものと認められる意識障害カード〔甲一〇〕にある「restless」との記載、カルテ〔甲七〕の「PM9:00の時点で全く問題なし。体動は激しかった。」との記載、阪大病院の退院時看護要約〔乙二〕の「体動かなりあり。」との記載、被告病院の看護記録〔乙一〇〕の八月一七日一八時の欄の「右側臥位か仰臥位をとっている、両上肢共屈曲したりと運動活発」、同日二一時の欄の「仰臥→右側臥位を繰り返している。」との記載からすれば、和美の被告病院の入院時の体動が相当激しかったことが窺われる。)。心電図モニターに関しては転院直後に装着されたが、和美の体動が激しく正確な測定ができないとの理由で外された。
同日午後七時半ころ、原告は、担当看護婦から面会時間が過ぎているので帰宅するようにいわれ、その際、和美が動くので手を縛って欲しいと看護婦に要望したが、右申入れは聞き入れられなかった。また、付添のための宿泊も申し出たが、完全看護であることを理由に拒否された。
その後、同日午後一〇時三〇分までの準夜勤の勤務であった西岡美代子看護婦は、何回か(和美が転院してきた当日であり、担当医から頻回に呼吸器の痰を吸引するような指示もされていることからすれば、看護婦としても和美の状態には特に気を配っていたはずであり、しかも和美の入院していた本件病室は看護婦詰所の前にあって出入りの際に注意すれば中を覗いて容態を確認することは容易であったから、少なくとも看護記録にあるように巡回が午後九時と午後一一時の二回しかなかったとまでは認められないが、その回数は必ずしも明らかではない。)和美の容態を確認するために訪室したが、特に異常はなかった(なお、当日の準夜勤及びこれを引き継いだ夜勤の看護婦は二名で、その担当する入院患者は和美を含めて約五〇名であった。)。その後、勇看護婦に引継があり、同人が午後一〇時五〇分ころ、最初に本件病室を訪室した際に和美がうつぶせの状態であることを発見し、急いで和美の体を仰向けにした。このとき、和美はすでに心停止の状態であった。和美の右心停止の原因は、和美の喉に挿入されていた呼吸用チューブが閉塞されていたためであった(この点に関し、和美の喉に挿入されていた呼吸用チユーブが閉塞していたことを確認したとの証言はないが、和美の体勢は正看として三、四年の勤務経験を有していた勇看護婦が呼吸器が閉塞されているとすぐさま判断したような状態であったこと、少なくとも痰が呼吸器に詰まっていなかったこと、意識障害があった和美に痙攣が生じた様子が窺えるようなカルテ等の記載はなく、痙攣により和美が伏臥位になったことの説明は困難であること等に鑑みれば、呼吸器が閉塞されていたと考えるのが相当である。この点、勇看護婦は和美は完全にうつぶせになっていたわけではなく、呼吸器の閉塞も確認していないと証言するが、この点に関して担当医が作成した被告病院のカルテに「PM一一時の時点で心呼吸停止の状態で発見された。うつぶせの状態で気切部は下向きとなり圧迫されていた。ほぼ窒息状態であった!?」と記載されており、その他の可能性に関して全く触れられていないことからすれば、勇看護婦から気切部が下向きになって圧迫されていたという説明があったと考えるのが相当であり、完全にうつぶせになっていなかったとする勇看護婦の証言は右カルテの記載と対比して信用できない。むしろ、カルテ上の記載からすれば、被告病院の担当医としても勇看護婦の説明は十分信用に足りるものであって、現実に和美の呼吸器は閉塞していたと考えていたものと思料される。)。
同日午後一一時過ぎ、原告の自宅に被告病院から電話があり、和美が本件心停止を起こしたからすぐに来院するようにとの連絡があった。被告病院に駆けつけたところ、担当の中井医師から午後九時に見回ったときには異常はなかったが、午後一一時に見回った際にはうつぶせの状態で発見され、本件心停止を起こしていたとのことであり、右原因についてほかの可能性の説明はなかった。
3 和美は、右時点では蘇生措置により一命を取り留めたが(なお、蘇生が成功していることからすれば、呼吸器閉塞から一〇分以内には発見されたと考えられる。)、意識が戻ることはなく、その後、意識レベルが著しく低下し、三-三-九度方式で III-三〇〇(刺激しても覚醒せず、全く動かない状態)となった。
4 被告病院の担当医師が、翌平成七年六月四日、中井医師から龍神秀穂医師(以下「龍神医師」という。)に変わったが、その後も和美の意識レベルは三-三-九度方式でIII-二〇〇 (刺激すると手足を少し動かしたり顔をしかめるが覚醒しない状態)ないしIII-三〇〇 を推移するのみで、和美の容態は好転しなかった。意識レベルの慢性的な低下に伴い和美の生体防御機能も低下し、和美は、本件心停止直後の平成六年八月二二日にはMRSA鼻炎、九月四日、同月一九日には肺炎、同月二〇日には尿路感染症、一〇月一日にはMRSA肺炎、一二月二日には肺炎(非MRSA)、平成七年一月一九日、二月二七日に肺炎を発症するなど、繰り返し感染症を引き起こし、結局、平成七年一一月一四日、肺炎に基因するDICにより死亡した。
5 その後、原告と本件交通事故の加害者との間では示談が成立し、保険会社から六〇五一万七七二〇円の支払を受けた。内訳は以下のとおりである。
治療費及び入院料 一三八五万五五一〇円(一七三一万九三八八円を二割過失相殺)
看護料 三五万五三〇五円(四四万四一三一円を二割過失相殺)
通院費 一万五七三六円(一万九六七〇円を二割過失相殺)
諸雑費 三九万二八〇〇円(一日一〇〇〇円の割合で四九一日分四九万一〇〇〇円を二割過失相殺)
その他 一九万四四一〇円(二四万三〇一三円を二割過失相殺)
休業損害 三一七万一一五八円(三九六万三九四八円を二割過失相殺)
慰謝料 一五六万四八〇〇円(一九五万六〇〇〇円を二割過失相殺)
死亡、後遺症による逸失利益、慰謝料合計 四〇三八万円
葬儀費 五八万八〇〇〇円
合計 六〇五一万七七二〇円
二 被告の責任(争点1)
被告病院は完全看護体制をとり、夜間の付添を禁止していたのであるから、夜間においては特に入院患者の健康状態の観察、管理を細心の注意をもって行い、何らかの異常な兆候を直ちに発見し、対処すべき注意義務を負っているところ、右認定事実によれば、和美は脳挫傷による意識障害のため体動が未だ落ち着かない状態にあったが、和美の喉には呼吸用チューブが挿入されていたものの被告の主張するような通気孔が二つある人工鼻は装着されていなかったから、万一うつぶせになったときには、呼吸用チューブが押えつけられて空気の通り孔がふさがり和美が窒息してしまう危険性が十分予想されたところ(転院前の阪大病院のカルテにも人工鼻の閉塞に注意すべきとする記載がある〔甲三の44頁参照。ただ、喀痰に対する注意喚起の趣旨も含むものである。〕。また、硬膜外チューブを自己抜去したこともあるので、呼吸器の閉塞だけでなく呼吸器の抜去への注意も必要である。)、本件においては、原告から、和美の体動が激しいのでうつぶせになって窒息しないよう和美の手を縛ってほしいという申し出もあったのであるから、被告には、診療機関としての注意義務の一内容として、和美がうつぶせにならないように上肢を抑制するか、または、たとえうつぶせになったとしてもすぐに発見して上半身を仰向けにできるように頻繁に巡回するなり、心電図モニターを装着するなりして和美の状態を常時監視すべき義務があったというべきである。それにもかかわらず、被告がかかる義務を怠ったために、和美がうつぶせになって呼吸器が閉塞し、本件心停止が惹起されているから、この点につき被告には注意義務違反が認められ、不法行為責任を免れ得ないというべきである。
この点、中井医師や西岡看護婦は、和美の体動を見る限りうつぶせになるような危険性は感じられず、和美の手を抑制すべきであると判断すべきではなかったと証言し、和美がうつぶせになることについての予見可能性を否定するとともに抑制しないことについての帰責性を否定するが、被告病院においては転院直後て患者の体動について当日の日中の状態しか現実に把握できておらず、その際も前記認定のとおり体動が現認されており、当日付き添っていた原告が和美の体動を見てわざわざ帰宅時に被告病院の看護婦に和美を抑制して欲しいと申し入れ、現実にその後三時間もしないうちに和美がうつぶせになってしまっていることからすれば、和美の体動はうつぶせになる危険性がある状態であったと言わざるを得ない。とすれば、むしろ、両名の抑制すべきではないという判断自体に誤りがあったというべきであって、被告の予見可能性ないし帰責性を否定することはできない。
なお、被告は、患者に対する人権上の判断からなるべく抑制は避けるべきであるとも主張するが、患者の生命、身体に危険が及ぶ可能性がある場合にまで抑制すべきことにならないことは論を待たないし、仮に抑制しないと判断するのであれば、うつぶせになる危険性が現実化していたのであるから、抑制に代わる、しかも抑制と同等の効果を有する危険防止の手段を用いなければ医療機関としての十分な注意義務を果たしたとはいえないというべきである。被告は、心電図モニターの装着は体動が激しく無意味であるから外したと主張するが、それほどの体動があるのであれば、むしろ、うつぶせになる危険性が現実化していたことの証左というべきであって、モニターを装着すれば少なくともモニターが反応しなくなった場合に異常発生の可能性を発見しうるのであり、転院直後の患者の体動を常時監視しなければならない立場にあった被告病院が、和美にモニター装着もせずに看護婦の巡回に委ねたことは当時の病院の監視体制上不備があり、前記注意義務違反があるといわざるを得ない。
三 因果関係の有無(争点2)
1 播腫性血管内凝固症候群(DIC)について
証拠(甲一五ないし一七、乙五)によれば、次の事実が認められる。
播腫性血管内凝固症候群(DIC)は血管内で凝固反応が進行してトロンビンが生じるために起こる二次的な病態であり、発生機序は多様であるが、組織の損傷(外科的操作、広範囲の外傷、熱傷、悪性腫瘍など)、溶血反応(ABO不適合輸血、蛇毒による溶血)などによるトロンボプラスチン様物質の流血中への侵入、血流のうっ滞、ショックなどによる血管内膜の損傷、その他感染症、肝臓その他の網内系のブロックなどが挙げられる。感染症としては、悪性腫瘍、敗血症が代表的なものであり、グラム陰性菌感染症が典型的なものであるが、原因となるウィルスは多種多様である。
ところで、前記認定事実によれば、本件交通事故による和美の傷害は両側側頭葉脳挫傷、錐体骨骨折等のそれ自体死亡と直結しかねない重篤な傷害ではあるが、阪大病院での救命治療の結果、意識回復の兆しを見せていたにもかかわらず、被告病院での本件心停止後、和美の意識レベルが急激に低下し、その後、体力低下が感染症を引き起こし、播腫性血管内凝固症候群(DIC)に至り和美を死亡させたものと認められるのであり、和美の死亡と本件心停止との間には法的な相当因果関係があるものと認められる。
これに関して、龍神医師の回答書(甲一三)が提出されているが、右意見書によっても本件心停止が和美の死亡と因果関係を有することを否定するまでの趣旨を含むものとは解し得ない。
確かに、本件においては、和美は阪大病院からの転院当初からMRSA、緑膿菌に感染していた事情が存在するが、本件心停止前においては右心停止後ほど意識レベルは低くなかったのであり、和美の体力は感染症を惹起するウィルスや細菌にも十分耐えうる状態であったと考えられ、被告の意識レベルの低下がなければ感染症にかからなかった可能性が高い。にもかかわらず、現実には本件心停止以後繰り返し肺炎に罹患したのであるから、本件交通事故によって受けた脳挫傷等の負傷の影響を否定することはできないにせよ、むしろ被告の前記過失による本件心停止により和美の意識レベルが低下したこと自体が播腫性血管内凝固症候群(DIC)の発生に大きく寄与したものと考えるのが相当である。
4 したがって、和美の死亡の直接の原因が本件心停止とまではいえないとしても、本件心停止と和美の死亡には相当因果関係を認めることができる。
四 損害額(争点3)
1 証拠(甲一、三、四、一四)及び弁論の全趣旨によれば、和美の死亡により生じた損害は以下のとおり認めるのが相当である。
(一) 積極損害
治療費、入院費 一七三一万九三八八円
付添看護費 四四万四一三一円
入院雑費 六三万八三〇〇円
通院交通費 一万九六七〇円
葬儀費用 一三〇万円
(二) 消極損害
逸失利益 三三九三万五九六七円(本件交通事故当時の年収である二七四万四七一八円を基準に、三割の生活費を控除し、平均余命までの逸失利益をライプニッツ式計算法〔係数は一七・六六三〕で中間利息を控除して算出した金額)
休業損害 三九六万三九四八円
(三) 慰謝料
入院慰謝料 三九三万円
死亡慰謝料 二五〇〇万円(後記判断のとおり)
(四) 示談による保険会社からの支払
右(一)ないし(三)までの損害のうち、六〇五一万七七二〇円については、前記一の5のとおり本件交通事故の加害者の加入する保険会社から支払を受けた。
ところで、和美の死亡は、本件交通事故と本件医療事故が競合した結果発生したものというべきであるが、各行為の本質や過失構造が異なるうえ、双方の行為の時間的間隔も相当あり、本件交通事故と本件医療事故との間の関連性は非常に希薄であるから、本件交通事故と和美の死亡との間に相当因果関係があり、本件交通事故の加害者が和美に生じた損害全額につき責任を負う場合であっても(本件では、龍神医師の回答書〔甲一三〕によればかかる場合に該当する。)、医療機関である被告は本件医療事故後の損害を賠償する責任を負い、右損害と重なり合う限度で不真正連帯債務の関係になるものと解すべきである。
本件においては、本件医療事故そのものによって発生した損害としては、逸失利益と死亡慰謝料が考えられるが(なお、積極損害のうち本件医療事故後発生分については、保険会社からの支払によって填補済みであると認められる。)、逸失利益を計算するに当たっては、和美が本件医療事故当時にどの程度の労働能力が回復する可能性があったかが問題となるところ、和美は本件交通事故によって脳幹部に重度の脳挫傷を負っていたから、本件医療事故当時、既にリハビリ段階に入っていたとはいえ、どの程度まで回復する見込みがあったかについては、これを認めるに足りる証拠はない。したがって、本件医療事故により生じた逸失利益については本件全立証によっても確定し得ないというほかない。
次に死亡慰謝料について検討するに、示談において保険会社から原告に対し、死亡、後遺症による逸失利益、慰謝料として四〇三八万円の支払があったことについては前記認定のとおりであるが、本件交通事故と和美の死亡との間に相当因果関係が認定できるものの本件交通事故自体が和美の死亡の直接の原因ではない一方で、本件交通事故による和美の傷害は前記認定のとおり重篤なものであって和美の労働能力に対して回復しがたい影響を及ぼしたことからすれば、四〇三八万円には逸失利益の大部分が含まれていたと考えるのが相当であり、四〇三八万円のうち死亡慰謝料の占める割合は低いものといわなければならない。そして、前記認定事実によれば、逸失利益は三三九三万五九六七円であるから、死亡慰謝料として保険会社からの支払によって填補された金額としては一〇〇〇万円を超えないと考えるのが相当である。
ところで、本件では、和美は二一歳のときに本件交通事故に遭い、右事故によって負った傷害を治癒するために阪大病院の治療を受け、一旦回復傾向を見せて生存への期待を多く抱いていたと考えられるところ、かかる期待に反して被告の注意義務違反により死亡という最悪の結果を惹起されており、右のような本件事案の特殊性に鑑みれば、和美の死亡慰謝料は二五〇〇万円と認めるのが相当である。
そして、前示のとおり、右死亡慰謝料のうち既に保険会社からの支払によって一〇〇〇万円を超えない限度で填補がされているから、二五〇〇万円から一〇〇〇万円を差し引いた一五〇〇万円が死亡慰謝料として、また、その一割の一五〇万円が弁護士費用として、それぞれ本件医療事故と相当因果関係のある損害と認められる。
したがって、原告の請求は、一六五〇万円及びこれに対する和美の死亡した翌日である平成七年一一月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。
なお、被告は、和美が本件交通事故により受傷して死亡したことによる損害額の全部につき、原告との間には示談が成立し、弁済を受けたのであるから、被告に二重の填補を求めることは不当であり、和美の好意同乗による減額分を被告が負担する理由はないと主張するが、前示のとおり本件交通事故による損害のうち逸失利益と死亡慰謝料についてはそもそも過失相殺はされておらず、生じた損害の全額が填補されているとはいえないから、被告の右主張は理由がない。また、好意同乗による減額は過失相殺によりされるものであるところ、過失相殺は本件交通事故の加害者との関係で問題となり得たとしても、被告病院との関係で当然に問題になるものではなく、本件においては被告病院との関係で和美に特段の落ち度は認められないから、過失相殺をなすべきではなく、本件交通事故の加害者の責任と被告の責任は不真正連帯債務の関係に立つと解されるから、示談による免除の効果も当然に及ばず、この意味でも被告の主張は理由がない。
第四結語
以上によれば、原告の請求は主文の限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法六一条、六四条、仮執行宣言につき同法二五九条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡原剛 裁判官 武田美和子 裁判官 新谷貴昭)